Zettelkastenを機能させ、また形骸化させないために、何でもかんでも入れるべきではない。

この記事は約4分で読めます。

日々接する情報のうち「これは」という情報は、Zettelkastenに入れている。自分が知っていること、記録していること(= 既知の情報)を組み合わせたり、文脈の転換を行なったりすることで、新たな視点や価値を生みだす活動(これを知的生産活動といっている)に興味を持っている。その過程を支える実践的な方法としてZettelkastenが有効であると考え、今、試行錯誤しているところである。


Zettelkastenの仕組みは、ネットワーク型ノートで実装すべきである

Zettelkastenに似た仕組みとして、京大式カード(『知的生産の技術』(梅棹))がある。

詳しい説明は別の記事に譲るとして、これらに共通するのは、「原子的(Atomic)に書かれたノートや文脈の組み合わせを変えることで、新たな視点や価値を創造できることを目指している。」点にあると考えている。この文脈においては、ObsidianやScrapboxといった、いわゆる「ネットワーク型ノート」を使うことが望ましいと考えている。トップダウン型ノートでは実現が難しい。

ネットワーク型ノートを使うメリットは、知識の再構成によって新たな価値を創造できる点にある

では、ネットワーク型ノートを使うメリットはなんだろうか。

それは、すべてのノートがリンクで繋がっており、また、それぞれのノートが原子的(Atomic)な単位で書かれているが故に再利用可能であることだと考えている。ノートには、複数のポイントは書かれず、そのノート自体がZettelkastenにおける部品である。

例えば、レゴを思い出して欲しい。レゴは、部品であるブロックを組み合わせ、船や城などを作り上げることができる。これと同じことがネットワーク型ノートにも言えるのである。ノートの組み合わせによって、船でも城でも作り上げることができる。すなわち、知識を蓄積するだけでなく、再構成することによって新たな価値を創造できる点に、ネットワーク型ノートの本質的なメリットがあると言える。

再構成に必要な条件は2つある

そこで問題になるのが、再構成をするために必要な条件とは何かである。私は、以下の2つの条件があると考えている。

  • Zettelkastenの中ですべての情報を管理してはいけない
  • 他者の情報(本の書き抜きや生成AIの生成物等)を含めてはいけない

まず「Zettelkastenの中ですべての情報を管理してはいけない」である。これは部屋の整理と同じである。有象無象の情報が混在してしまうと、再構成するにあたりどの情報があるのか、どれを使って良いのかが分からなくなってしまう。Zettelkastenの中には考えや経験など、あくまで自分の情報を入れておくことが重要なのである。

次に「他者の情報(本の書き抜きや生成AIの生成物等)を含めてはいけない」である。私は当初、「生成AIが探してきた文献や文章」をZettelkastenの中に入れてしまっていた。これは「自分の意見や主張を裏付ける情報がZettelkastenの中に存在する」という点で非常に便利なように思えたが、そのうち、問題が徐々に明らかになっていった。例えば、1つのノートに複数のテーマが書かれていたり、非体系的なタグが付与されてしまっていたのである。つまり、Zettelkastenの中身はノイズだらけで、検索可能性も落ちてしまったのである。

その後、私が取った手段は悪手であった。何をしたかというと、(その時に使っていたClaude Codeの)精度を高めようとしたのである。

例えば、スキルを使ってガチガチに固めたルールでノートを作成させたり、サブエージェントを使ってノートの中身をレビューさせるなど、本来論的にはすべきではないところに時間と労力を割いた。その結果、何が起こったかというと、Claude Codeの利用量制限には引っかかり、出来上がったノートは多少マシになったものの、結果的に「他者の意見が入っている」という点は何ら改善できなかった。

今は考えを改め、Zettelkastenには自分の考えしか入れておらず、心の平穏は保たれている。

情報の出所と活用方法は、厳密に管理すべきである

こうして考えてみると、何か特定のテーマの論点を整理したり、文献の検索までをAIにやってもらうのは結構なことだとは思う。また、Zettelkastenの中身を検索して、思いもつかないようなインサイトを提示してもらうのも良いだろう。

しかし、AIにノートを作成・校正させたり、メタデータ(タグなど)や構造を操作させてはならないと強く実感した。これをしてしまうと、それらのノートがノイズになってしまい、知的生産活動ができなくなってしまう。

SNSを見ていると、個人の知的ノートと生成AI(Claude CodeやAntigravityがホットな話題のようだ)を組み合わせてコンテンツを量産するという記事、あるいは情報商材が出回っており、カオスな状態になっていると感じる。

私も、こうした仕組みを試した結果をnoteに書いたのだが、実際にはその仕組みは機能しないと思っている。なぜなら、これを本当の意味で実現しようと思うと、相応の設計能力、それに沿った運用が求められるからである。それができる人が、果たしてどれだけいるだろうか。できなければ、何もない状態からAIにコンテンツを作らせるのと何ら変わらない結果となってしまうのは火を見るよりも明らかである。

すなわち、例え生成AIが自由に使えるようになったとはいえ、それを使った知的生産活動には、AIの使い方だけではない「知識」の高度な運用能力が引き続き求められている点に留意する必要がある。

タイトルとURLをコピーしました